かつて松尾芭蕉は、主君藤堂良忠の遺髪を菩提寺である報恩院に納め、冥福を祈るために高野山を訪れたといわれています。その報恩院は、明治維新を迎え大きく時代が変化する中で普賢院と合併したお寺です。
このような縁で、戦後間もない頃、ホトトギス同人白象として句界で活躍していた当院住職寛紹は、西行法師が好んでこもったという伽藍の三昧堂を模した芭蕉堂を建立しました。
現在は芭蕉のみならず、子規、虚子、年尾をお祀りしており、俳句に親しむ多くの人たちが訪れ、定期的に句会も開催されています。
芭蕉堂には句帳が置かれ、参拝者が即吟句を残されています。その作品数は3万句以上となっています。
昭和2年、俳句雑誌「ホトトギス」を主催する高浜虚子が記念講演で高野山を訪れました。当時の住職寛紹(後の第406世金剛峰寺座主、俳号 白象)は、ホトトギスへの投句を続け同人として活躍したことから、木国、青畝、誓子などホトトギスゆかりの人たちの句碑が山内に数多く建てられました。
昭和26年には虚子、昭和56年に年尾、さらに平成11年には稲畑汀子の句碑が建てられ、奥の院に親子三代の句碑が揃うことになりました。現在、文学館では高浜虚子をはじめ様々な文人の残した墨跡を展示しております。
高濱虚子(たかはま・きょし)〔本名、清〕
1874(明治7)~1959(昭和34)松山市生れ。
河東碧梧桐とならぶ子規門の高弟。子規の「ホトトギス」を継続経営。
明治・大正・昭和三代にわたり俳壇に君臨、多くに秀逸人材を輩出させた。新傾向に対して守旧派を任じ「十七音有季」、「花鳥諷詠」を提唱。
「牡丹百二百三百門一つ」作の句碑増福院前