平成9年、ネパール国アクセソワール寺院(パタン市)より仏舎利が請来されました。これはかねてより当院とアクセソワール寺院との間で続けられた交流の過程で実現したものです。仏舎利は、仏教東漸のみち(一部)をたどりながら陸路水路で請来されました。
平成9年6月9日アクセソワール寺院での請来セレモニーを終え、一行は車に分乗し遥か3000キロの先日本を目ざしました。中国との玄関口ザンムーからヒマラヤ山脈をラサへと横断、さらにタクラマカン砂漠を縦断し仏教芸術の宝庫砂漠のオアシス敦煌を経た後、シルクロードの起点となる西安にて空海が灌頂名遍照金剛を与えられた青龍寺に参拝し仏舎利請来を報告、上海からは海路で神戸に到着6月30日に当院に安置されました。
出発から日本到着まで3週間、高低差4000メートル、春、冬、夏へと激しい気候の変化を体感する厳しい行程でしたが、仏舎利とお釈迦様の生地ルンビニに灯る平和の法灯を無事請来されました。
その後平和の法灯は本堂で輝き続け、仏舎利は請来を機に建立された摩尼殿の地下に安置され、仏様に会える寺院として広く親しまれています。
仏舎利請来の地図
仏舎利請来の旅日記【1】ネパール~ラサへ 教積院 高橋将元
我々はネパール王国の首都・カトマンズのトリブバン空港に降り立った。早速、今回の旅の第一目的である「仏舎利」をいただきにパタン市のアクセソワール寺院へと向かう。 ここで、シャカ族が守りスリランカから請来されたという仏舎利の一つをいただき、その御礼として高野山からは奥の院の法灯を贈呈させていただいた。 次に、第二の目的である「平和の法灯」をいただくためルンビニへ。ルンビニではマヤデヴィテンプルの発掘調査を行っており、運良く釈尊誕生の地を拝むことができた。さらに5時間をかけ、国境の町コダリへ。コダリからは徒歩で国境を越え中国へ入る。チベット側のザンムーからはランドクルーザーに乗り換え、三日かけて標高3630mのラサへ向かう。
ラサへ向かう途中にあるラルン峠の標高は5124mだそうだ。酸素濃度は平地の半分ほどしかない。さすがにここまで来ると、息切れが激しく頭は割れるように痛い。これが高山病というものか…。草木は一本たりとも生えていず、地上よりも宇宙に近いといった、まるで月面にでもいるような荒涼乾燥世界である。 そんな過酷な場所にも、無数のチョルテンが積まれタルチョが旗めいている。信仰とはいかに過酷なものか、いかに真摯なものかを思い知らされたような気がした。
仏舎利請来の旅日記【2】ラサ~敦煌へ 道音寺 平野仁弘
ラサはとても神秘的な街でした。政治の中心であるポタラ宮殿、宗教の中心である大昭寺などで目にした仏様はどれも大きく、体は金色に輝き、大きな目で私たちを見下ろしていました。その前で合掌して般若心経を唱えると、自然と緊張感が生まれてきます。また、全身真っ黒になりながら一心不乱に礼拝する巡礼者たちも数多くおり、その姿にも感慨深いものがありました。次に訪れたラサ三大寺院の一つ、セラ寺では、かつて河口慧海・多田等観両人が学んだ部屋を見ることができ、その当時を想像させるかのように、境内の一角で僧侶たちの問答修行が行われていました。
幻想的で神秘的な街ラサを丸二日かけて肌で感じ、次の訪問地、敦厚を目指しました。チベット高原を横断する青蔵公路では、90kmも真っすぐ伸びた道、塩で出来た道、雪が降って一面が銀世界の道を体験し、地球の広大さ不思議さを感じました。私たちはこの道のりを一昼夜で走り抜けましたが、法を伝えた先人たちはたくさんの法を背負い、歩いて伝えたのだろうか…。それを思うと胸が熱くなりました。
敦煌についた時はすっかり日も落ちて暗くなっていましたが、街の明かりが見えた時は皆、ほっとしたようでした。明かりというものは本当にありがたいと思いました。先人の伝えた法が人々の一筋の光明となったように、今回請来した仏舎利が人々の心に明かりをともすことを祈りながら、残された日本までの旅を続けます。
「仏舎利請来の旅」絵本
1997.4.8 第一刷発行
・おなはし/森 寛勝
・文/松下 千恵 ・絵/栗原利根 ・デザイン制作/わかやま絵本の会
・印刷製本/中央印刷株式会社