当院のご本尊でもある普賢菩薩は、もと『華厳経(けごんきょう)』が編纂される過程で生み出された菩薩であるといわれています。『華厳経』は仏陀の悟りの内容をそのまま描いたものといわれ、大乗経典の中でも最も傑出した壮大な世界観を有するものとして有名です。「普賢」というのは、あまねく行き渡って優れているという意味で、本来は仏の徳を讃えた言葉であったと推定されています。それがどのような過程を経て菩薩の名前とされるようになったかは定かではありませんが、普賢菩薩は仏陀の悟りの世界である清浄にして華麗なる「華厳経の世界」を解き明かす重要な役割を担って登場しました。わが国では、普賢菩薩の像は白象に乗ることで有名です。 このスタイルは『法華経(ほっけきょう)』に由来し、そこでは普賢菩薩が六牙(ろくげ)の白象(びゃくぞう)に乗って現われ、法華行者を守護すると説かれています。
密教は大乗仏教で重んじられた利他精神をより積極的に生かして、人々を救済しようとする教えです。密教では修行者のことを真言行者(しんごんぎょうじゃ)といいますが、真言行者の最も理想的な姿を「金剛薩埵(こんごうさった)」と呼んでいます。 この金剛薩埵の前身の一つが、実は『華厳経』に現われた普賢菩薩なのです。このことから、金剛薩埵と普賢菩薩は同体と見なされ、密教では普賢金剛薩埵とも呼ばれています。ただし金剛薩埵は金剛手菩薩とも呼ばれるように、普賢菩薩とは像容が異なります。金剛薩埵は澄み切った秋の夜空に輝く月のように清らかな満月輪の中で禅定(瞑想すること)に入り、右手に五鈷杵をもち、左手に五鈷鈴をもつように描かれます。「月輪」とは私たちのこころのなかにある清らかな菩提心すなわち悟りの心を表しています。このように、金剛薩埵は普賢菩薩を前身として生まれ、菩提心の存在として、常に私たちの心の中にあって、私たちを見守り、導いてくださる仏様です。
明治期に普賢院に合併された寶聚院、18世紀杲恵上人縁りの大黒天です。仏舎利殿(摩尼殿、光明心殿)の建立の際に発見されました。清貧を極めていた寺門を繁栄に導き、その功徳の高さを紀伊續風土記が伝えています。毎年5月の夏季法会にてご開帳されます。
金剛吼(こんごうく)・竜王吼(りゅうおうく)・無畏十力吼(むいじゅうりきく)・雷電吼(らいでんく)・無量力吼(むりょうりきく)の名称がつけられている五幅からなる仏画白描図。この五大力菩薩像は、旧訳「仁王経」に説かれる国家護持を祈る大法の「仁王会」の本尊に用いられる尊像群です。
またこの作品の評価を高める理由に、背の墨書銘から鎌倉時代の建久8年(1197)に豊前五郎為広によって描かれていることが明らかとなり、日本美術史研究の基準作例となる貴重な仏画であることが上げられています。同様のものに「有志八幡講十八箇院五大力菩薩像」が知られていますが、その名前は当院が所蔵する白描図像「五大力菩薩像」の名称に従ってつけられたようです。
中尊金剛吼は胸前で左掌に輪宝を捧持し、右手は人指し指と中指を伸ばす拳印を結んで、胸前で掌を前に向ける坐像です。また、竜王吼は右手に輪宝を持って高く振りかざし、左手は拳印を結んで腰に当て、斜め左を向いて右足を蹴り上げる立像。そして無畏十力吼は左手に独鈷杵を持って高く振りかざし、右手は拳印を結んで腰にあて、斜右を向いて左足を蹴り上げる立像です。無量力吼は無畏十力吼を同じ姿で、左の持物が剣となり、雷電吼は竜王吼と同じ姿で右手の持物が羅網となる点が相違しています。
※高野山霊宝館収蔵
蓮華文撞座の左右に孔雀文様をあしらわれています。力強い孔雀の文様や弦の張りなどからみて、鎌倉後期のの制作と考えられています。