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普賢院のおはなし

普賢院縁起

高野山のほぼ中央に位置する普賢院。紀伊續風土記には「覚王親王が大治年間(1126~1131)に高野山を訪れた際、力乗上人に念持仏普賢菩薩を与えられ、頂戴した仏像にちなみ普賢王院と称したことが始まり」と縁起が記されています。
この普賢菩薩は、弘法大師十大弟子の一人華厳寺道雄の作に弘法大師が自らが点眼されたとされ、霊験あらたかな尊きシンボルとして多くの参詣の人々を集めてきました。

その後時代の変遷と共に幾多の大きな波にもまれながらも祈りの時は現在へと続き、平成八年にネパールより仏舎利が請来されたことを機に仏舎利殿が建立され、いつでもお釈迦様との出会いができる寺院として親しまれています。ご本尊として、本尊普賢菩薩とは同体で我々衆生と仏の世界を結ぶ金剛薩埵像が奉安され、毎年五月末に行われる「夏季祈」は山内の初夏を彩る法会となりました。

普賢院縁起

平安~明治時代

平安時代を迎え高野山浄土信仰が広まりとともに、藤原摂関家や皇族の参詣が活発となり、康治2年(1143)12月13日普賢院の本堂が創建されました。しかし、その後間もない久安5年(1149)、山内の火災により焼失しましたが、五智房融源により再建されました。
鎌倉時代になると高野山には、幕府の関係者によって多くの寺院が建立されましたが、室町時代になり様々な争いや出火により多くの子院が焼失しました。桃山時代になると豊臣秀吉により亡母の菩提を弔う青巌寺が建立され、室町時代の火災により焼失していた伽藍諸堂の再建や修復を行われました。その頃天正年間(1573~1592)、尼子の遺臣である山中鹿之助幸盛が普賢院に潜居したことがあります。
江戸時代には諸大名がこぞって子院と宿壇宿坊関係を結び子院の維持に援助を行い高野山は約2000ヶ寺が甍を並べる一大宗教都市となりました。残念ながら江戸時代も引続く火災や争いに加え幕府による取り壊しなどもあり、江戸時代の末期には子院は436軒にまで激減したのです。元禄3年の(1670)火災により、普賢院の古文書や仏具などが灰燼に帰し、寛永以前の資料が不明となりました。

明治維新を迎え、新しい体制への大変革という大きな波が高野山に押し寄せ、寺領返還などで経済的な基盤を失う中、明治21年(1888)、五の室谷大火により普賢院の本堂が焼失しました。この火災は3日間燃え続け、山の3分の2、子院77ヶ寺、民家70余戸が灰燼に帰しました。その結果、廃仏毀釈の流れとともに消失を免れた359ヶ寺の子院は130ヶ寺まで統廃合されました。
何とか寺蹟を残すため自寺の宝物を再興できる寺に譲る廃寺も多くあり、この普賢院にも高野山東照宮の拝殿と裏門(現在の四脚門)が移築され、今もなお寺院の大切な堂宇として多くの参詣の人々を集めております。

現在

平成八年、普賢院にネパールより仏舎利が請来され、いつでもお釈迦様との出会いができるようにと仏舎利殿が建立されました。ご本尊として、本尊普賢菩薩とは同体で我々衆生と仏の世界を結ぶ金剛薩埵像が奉安され、毎年五月末に行われる「夏季祈」は山内の初夏を彩る法会となりました。
火災と再興を繰り返しながら幾多の試練を乗り越えてきた高野山。その中で普賢院もまたその時代時代を力強く生き抜いてきました。大きく時代が変わろうとも、これからも一つの法灯を照らし続けていくことでしょう。